11月6日(降誕前節第7主日) 牧師手記

聖徒の日に寄せて

洛南教会は長命な方が多い。永く信仰の証しををされて召された兄姉、その生涯を顧みると「神様に全てを委ね、くよくよせず、心穏やかにして過ごしたが故」かと思うのです。

聖書でも、神の元へと召される時の様子が描かれた物語が度々出てきます。私たちがよく知るところは、モーセの死であります。「神が約束した地を見たい」と出エジプトの難題を何とか成し遂げ、後は約束のカナンの地に入ろうとする時、神はモーセに「あなたは約束の地に入ることができない」と命じ、神はカナンを前にしたピスガの頂きに立たせて、約束の地を見せます。そして、ここでモーセの命が終わります。人の命が神の支配の元に在ることを教えられます。モーセは、約束の地に入ることの強い願いを語らず、またこの地で葬られる時もその場所をとどめることも願わず、すべてを主に委ねるのであります。

「すべてに時がある」と言います。生まれる時があれば、死ぬ時がある。すべてが神の支配の元にあることを聖書は諭します。「人間は神を畏れ敬うように定められた」と聖書は言いますが、イエスは「神は生きている者の神」として、「すべての人は神によって生きている」と言います。

わたしたちは、いつも自分を中心にして生きますし、「食べる」行為をもって、意識してこの世に生き、労働して自活をする。すると「神によって生きている」ことを受け止めることが難しく思います。信仰目的の一つは、「神によって生きている自分」を知ることではないかとふと思うのです。

主任担当教師 井上 勇一