10月9日(聖霊降臨節第19主日) 説教要約

説教題「ゲッセマニの祈り」

聖書:マルコによる福音書 第14章27〜42節

イエスが十字架を前に神に祈りを捧げる場面が本日の課題の聖句です。今日の聖句はその前に「ペテロの離反予告」が合わせて与えられました。ペテロはイエスの予告通り「イエスを知らない」と言うことになります。そして、ゲッセマニではイエスは十字架に向かう苦しみを共有してほしいと願い、弟子たちに「祈ってほしい」と勧めます。しかし、弟子たちは3度イエスの願いを裏切るのであります。イエスは「もうこれで良い」と決断し、「時はきた」と受け止め、「立て、行こう」と決断するのです。

イエスのゲッセマニの祈りは、イエスにとって「人の子」としての決断の時でもありました。「この杯を取り除けてほしい」と願い、「御心ならば適うように」と祈ります。このイエスの選択は人の弱さが決断に至ったことがわかります。「知らない」と言うペテロ、「イエスの祈りを共有できない」弟子たち。この人の姿をもって、イエスは「もうこれで良い」と言い、「時はきた」と受け止め、十字架への道を決断していきます。いわば、イエス自身も十字架を前に苦しみ、人の子としての弱さを表しますが、それ以上に私たち人の弱さによって、イエスの十字架への決断がされたと言えます。

人間の弱さは、「貧しさ」と同義であると言われます。イエスは「こころ貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」と言います。またパウロも「弱さを誇る」と言い、「己の弱さに働く神の恵み」に感謝するのであります。人は「弱さ」があるから、人と人との関係をを結ぶと言われます。イエスは、「神の国」はあなた方の間にあると言いますが、「間」をどう作り、どう言う関係を作るかが課題となります。イエスは神と一つとなることを十字架で果たしますが、その願いが「間」にあるのです。

主任担当教師 井上 勇一