9月18日(聖霊降臨節第16主日) 説教要約
説教題「器の中身をみる」
聖書:マルコによる福音書 第12章35〜44節
本日の聖書箇所では「メシアはダビデの子なのか」というイエスの言葉が与えられました。イエスが投げかける「問い」であります。メシアは「油注がれた者」という意味で使われますが、ここではさらに大きく捉えられ、「救い主」と言う意味に使われています。旧約の時代、「油注がれた者」は、「神の権威を受け継ぐ者」という捉え方をされ、イスラエルの王となるサウロ、ダビデ、ソロモンなどは「油注がれた者」として、神の権威を受け継ぎ、神の栄光を現わす(現したもの)と位置付けられました。
それがイエスの時代には「メシア待望」が叫ばれ、「神の権威を持つ者」という捉え方をし、「ダビデの再来」、「ダビデの子の到来」と叫ばれたのであります。イエスが奇跡を起こし、病気を癒し、人を蘇らせ、五千人に食事を提供する奇跡を起こします。イエスは弟子たちに「私を何者と思うか」と問います。ペテロは「あなたはメシアです」と応えます。このペテロの言葉には「あなたは神の子キリストです」という強い意味があります。
イエスの問い「メシアはダビデの子なのか」にはダビデのイメージが過大に評価されていることへの問いかけであります。「王であるがメシアではない」というイエスの思いがあります。ダビデが神の神殿を造りたいと神に願います、すると神はその願いを「戦いの中で、人の血が流された。ダビデがわたしの名のために神殿を築くことは赦されない」と拒否し、ソロモンに神殿の建築を許可するのでありました。
「メシアというイメージには何が求められるのか」、それを「律法学者」の姿と「2レプタを捧げる貧しい女」の姿を通して考えます。そこに見えてくるのは、神の前に立つ人間の「こころの姿」を想像するのであります。
主任担当教師 井上 勇一