8月7日(聖霊降臨節第10主日) 聖書釈義

釈義題「平和の道具となる」

聖書:マルコによる福音書 第9章33〜41節

今日は「平和聖日」であります。イエスは「平和を創り出す人たちは幸いである」、「その人たちは神の子と呼ばれる」と言います。イエスの福音は、隣人愛、平和、自由、平等の考え方がイエスの言葉や行動を通して明らかにされます。そして、それが神の意志であることも明らかにします。

その一方、旧約という神の救済史の歩みを生きたイスラエルの民の歴史は苦難、悲劇、戦争、攻守の侵略を経験します。「神の平和」が永くイスラエルの上に来たと言う経験はありません。そんな中でイエスの福音は、神の平和を強調され、神を求める者にその平和が訪れることの約束をするのであります。

マルコの言葉は、「先になりたいものは人の後になり、仕えるものになれ」といい、幼子を抱き上げて「わたしの名のためにこのような幼子の一人を受け入れる者はわたしを受け入れるのである。そして、わたしを受け入れる者はわたしをお遣わしになった方を受け入れる」といいます。幼子は「弱い存在」と位置づけられ、隣人愛を勧める「隣人」に位置づけられます。すると、「幼子」はわたしにとって遠い、小さな存在としてあり、わたしが係りを持つことがない位置にあります。その幼子を受け入れる者が、わたしを受け入れるのであるというのであります。

このイエスの言葉は、平和を創り出すための基本的な姿勢として捉えられます。「最も遠い、小さい存在は、無視してしまうし、切り捨ててしまう。」、そうではなく、「小さい存在者を無視しない、切り捨てない」という視点に立てば、そこに「戦い」や「争い」は生まれないのではないでしょうか。

主任担当教師 井上 勇一