7月24日(聖霊降臨節第8主日) 説教要約
説教題「神の願う告白」
聖書:マルコによる福音書 第8章22〜30節
旧約の民は、「神は見える」方(出エジプト記24:9-11)と受け止めていました。ただ、見たことで「罰」が下ると恐れ、神を畏怖し、民が神の前に罪を犯し続けるが故に見るにふさわしくないとしていました。モーセと神との出会いは、燃える芝の中に神が現れ、神の姿を仰ぐことがありませんでした。また、その後の預言者たちも「神の言葉を受けるが、見た者はなかった」、民は、生ける神、在る方と捉え、見ることのない神の教え、律法を守ることで、神の前に立ち続けたのです。
イエスは、「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示された」(ヨハネによる福音書1:18)と捉え、「見えない神」の意志を福音として明らかにします。その神の姿は「寄り添う神」であり、「人を愛する神」であり、「わたしを友と呼ぶ神」の姿でありました。
神を見ようとしない民に、イエスは積極的に神の姿を明らかにします。不正を許さず、人の咎を裁く、恐ろしい神、あいまいなことを許さず、厳格さを求める神、そんな神と受け止めていた民に、イエスが表した神は違った神の姿でありました。積極的に神の姿を明らかにするイエスは、神のイメージを修正しようとした配慮と理解できます。そして、究極的に神の姿を明らかにしたのが、復活の出来事でありました。
このイエスを見て、弟子は「あなたはメシア、キリストです」と告白します。この弟子に向かってイエスは言います、「わたしを見たから信じたのか、見ないのに信じる人は、幸いである」と。このイエスの言葉は、「神は目で見えるようになるのではなく、こころで認めるようになる」との神の意志を示すイエスを見るのであります。次のパウロの言葉を覚えたいと思います。
「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
(コリントの信徒への手紙二4:18)
主任担当教師 井上 勇一