4月10日(受難節第6主日) 説教要約

説教題「受難への道」

聖書:マルコによる福音書 第14章32〜42節

福音書の描くイエスは、「祈り」の人と言われ、朝夕に静かに祈りを捧げ、神の前に立ち、民衆に福音を語り、癒し、慰め、寄り添い、神の恵みを伝えるのであります。ただ、「人の子」としてのイエスは、苦難をまえに動揺する一面もありました。今日の聖書にある「ゲッセマニの祈り」では「我が神」と3度神を呼び、「杯を私から取り除けてほしい」と願います。「ただ、神の意であれば思いのままに」と祈るのです。また、十字架上においてもイエスは死を前に「我が神、我が神」と呼び、「何故にわたしを見捨てるのか」と怒りをもって嘆きを神にぶつけるのであります。

「死」は私たちにあっては大きな「壁」であります。この先を見たものはいない。私たちは死を前にして、祈ることは「神様、生かしてほしい」と誰もがそう祈るのです。

先に死があっても「生きる」ことを願う私たちがいる。イエスは「わたしは死ぬばかりに悲しい」と弟子たちに協調を求め、血が滲むように祈ります。しかし、弟子はイエスに協調できずに眠っている。この「眠る弟子」こそが「死の現実」が分からないが故の人の姿といえるでしょう。

イエスのゲッセマニの祈り、十字架上の祈り、この祈りは、イエスの復活と対となる行為と言えます。復活した時、イエスは弟子たちに向かって「不信仰と頑なこころをとがめた」と聖書にはあります。イエスの死を前にした葛藤の祈りは、まさに「前に前に生きること」を願いつつ在り続ける私たちに代わった「姿」と言えるのです。このような絶望を覚える状況下にあっても、イエスは、「みこころのままに」と神への信従を祈り、先にあるものが何であるかを知っているのです。

主任担当教師 井上 勇一