4月3日(受難節第5主日) 説教要約

説教題「代償」

聖書:マルコによる福音書 第10章32〜45節

イエスの十字架は、人の罪を贖う「代償」であったと言われます。私が冒す罪、どれが罪なのか自覚できないのが私たちです。ただ、「見えない神」を前に心によぎる様々な悪を見ます。神の前に冒した罪、それは拭い切れない数があります。それを神の前で償うことができない。イエスの死は私に代わって「償うことができない罪」を償ってくださった。そして、神の救いに与かる身にしてくださったというのが聖書の考え方です。パウロはローマの信徒への手紙で「信仰義認」を唱えますが、キリストの代償が前提としてあります。

さて、聖書の物語は、福音宣教が拡がり、イエスを信ずる人が増え、群れが生まれます。イエスが気になることは「わたしを何者と受け止めているか」と言うことでありました。ある者は「預言者」「先生」と呼ぶ。イエスは弟子に「それではおまえ達、どう思っているのか?」すると、ペテロは「救い主、メシアです」と応えます。すると、イエスは「福音宣教の成熟したこと」を受け止め、「福音の秘密」を明らかにします。「死んで3日後に復活する」と、何度も弟子たちに予告するのです。すると、弟子たちもイエスの予告を真理として、信仰の願いとしてイエスに求めます。それが今日のやり取りであります。

私たちの信仰には、求道という信念と願いという希望があります。そして、願いは誰もが「神の救い」に与かることであります。すると、ヤコブ・ヨハネの兄弟は、「イエスの右と左を私たちの立ち位置としてくれ」と願い頼みます。このイエスと弟子との間には信頼関係から救いの確信が示されています。しかし、イエスは「人に仕える者、人の僕になれ」と勧め、「生涯にわたって求道しつづけること」を求めるのです。

「これは何故なのか」、イエスの、神の意志について考えさせられます。

主任担当教師 井上 勇一