3月20日(受難節第3主日) 説教要約

説教題「後ろの扉を閉ざす」

伝道礼拝として、本日はアシュラムセンター主幹牧師の榎本恵(えのもとめぐみ)牧師をお招きして、説教をしていただきました。

聖書:創世記 第7章1〜16節

今回旧約聖書で選びましたのは、有名なノアの方舟の物語であります。大洪水をモチーフにした物語は、当時のメソポタミア地方には数多く残されており、この洪水が歴史的事実であったかどうか、考古学的な興味の行くところではありますが、今日私がこのノアの物語の中で注目したいのは、この箱舟の後ろの扉を神が閉められたということであります。聖書はこう記しています。

「神が命じられた通りに、すべての肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた。」(創世記7:16)

神が堕落した地上の悪を滅ぼし尽くすために起こすと約束された洪水が、地の面を覆う頃、ノアとその家族、そしてひとつがいずつ選ばれた生き物たちが乗った箱舟の扉が閉められるのです。これから起ころうとする恐ろしい出来事の中で、この箱舟の中にいたものだけが、それを免れることができたのです。そしてその扉は神によって閉められたのです。「後ろで閉ざされる戸」、「神によって閉められる戸」、それは一体何を意味するのでしょう。

それは第一には、「過去との決別」であります。今までの習慣や経験、そして生き方から決別を意味するのです。もう、後ろを振り返らない、いや振り返れないのです。あの塩の柱とされたロトの妻のように後ろを振り向いてはいけないのです。それが、箱舟の中に入るよう選ばれたものの、すなわち救いのうちに入れられたもの姿なのです。第二にそれは、彼らが「神の手の内にある」ということなのです。神の手によって閉められた扉の内側にいるのです。それはどんな嵐の中にあっても大いなる安心に他ならないのです。なぜなら、その扉は、神自らが閉ざしてくれたからです。ノアとその家族、そして生き物たちにとって、この箱舟の経験は極限状態の中での出来事であったでしょう。それは今までの世界との決別でありました。彼らは大いなる信仰の決断を持って船に乗り込んだに違いありません。

アシュラムの点と線でいうならば、「緊迫状況で起こる信仰」の点であったのです。しかし、それはそこで終わったのではありません。彼らは引き続き、何日も何日もの間(聖書は150日と言っていますが)、その洪水の中にあったのです。いつ終わるともわからぬ洪水の中を、彼らは過ごしたのです。船の大きく揺れる時もあったでしょう。また、雷鳴の轟くような危険な夜も、波ひとつ立たぬ穏やかな、けれども飽き飽きするよう日々もあったに違いありません。彼らはそのような日々の中で、信仰の弱くなることを覚えたかもしれません。しかし、「後ろの戸を閉められた」ていたのです。彼らはその過去からは決別したところで、神の大いなる安心の手の中で、「信じる」という点を打ち続けていたのではなかったでしょうか。

私たち、神の恵みにより、救いに入れられたものも同じではないでしょうか。もちろん、大いなる決断をし、信仰へと入った方もいるでしょう。しかし、ただ誰かに連れられ、ひとつがいずつ選ばれ、箱舟の中に入れた生き物のように、またノアの家族であるというだけでその救いのうちに入れられた息子や娘のように、信仰へ導かれた方も多いのではないでしょうか。けれどもそれもまた、神によって選ばれ、この救いのうちに入れられているのです。まさに救われていることさえ忘れて救われているのです。ところが、その恵みによって救われるているはずの私たちが、時としてその救いを疑い、信じることができなくなるのです。病や経済の困難という、襲い来る苦難の数々を前にして、また失敗や挫折という、自分の思い通りにことが進まなくなる時、私たち不安と恐れの中で、叫ぶのです。「ほんとうに神はおられるのか」と。けれども、神はおられるのです。そしてしっかりと私たちの後ろの戸を閉められているのです。

さて、このただぼんやりとしか信じることができず、曖昧なうちに教会生活を送る私たちが、どのように「信じきる」という点を線とする信仰を持つことができるのか。それこそが、今日の最大のテーマなのです。「点の連続が線となる」「信じていることさえ忘れるほど信じる」それらのことは、みなひとつことを指し示しているのです。それはこの山上の説教で主がいわれる「祈りの生活」なのです。見せびらかす祈りではなく、奥まった部屋の扉を閉じ祈る。くどくどと祈るのではなく、祈りの言葉を唱え祈る。それこそが、日々の祈りの生活なのです。朝起きてまず祈るのです。1日のはじまりを、祈りを持って始めるのです。そして祈るように歩き、祈るように食べ、祈るように仕事をするのです。祈りながらではありません。祈るように生活するのです。祈ることを忘れるほどに祈るのです。主の教えてくれたあの「主の祈り」を生きるのです。それができるか、できないかといえば、できないことの方が多いでしょう。それでも諦めず点を打つように続けるのです。その心の奥を神は知っておられるのです。どんな時もあなたの後ろの戸を神が閉じていてくださることを信じ、安心して生きていくのです。この世では多くの誘惑が私たちを翻弄します。けれども、どんな時であっても、主は私の後ろの戸を閉じてくださることを信じ、生きていくのです。

最後に、私の好きな詩人八木重吉の詩の一つを紹介しましょう。わずか29歳で、若い妻と幼い子供2人を残し、結核で亡くなっていったクリスチャン詩人八木重吉の最晩年の詩です。病床の中で、癒えぬ病に絶望し、また自分の死期を自覚し、子や妻の行く末を案じ、胸張り裂けんばかりに嘆く彼が、しかし最後に見出したものは、その横たわる病床の上に広がる、天であり、そこにおられる大いなる御手を持ち、後ろの扉を閉められる神の存在であったのではないでしょうか。

「てんにいます/おんちちうへをよびて/おんちちうへさま/おんちちうへさまととなへまつる/いづるいきによび/入きたるいきによびたてまつる/われはみなをよぶばかりのものにてあり」

これは1925年に発表された詩集「み名を呼ぶ」の中の一つです。この2年後重吉は天に召されるのですが、これこそが、まさに彼の祈りそのものではないでしょうか。吸う息で、吐く息で、おん父上さまと神の名を呼ぶ。呼吸するように唱える祈り、これこそが、祈るように生きる者の究極の祈りだと私は思います。祈ることを忘れる祈りとは、この白息も、吸う息も祈りとなる、息づかいの聞こえる祈りなのです。そう祈れた時、信仰が点から線に変わり、信じるから信じ切るへとなっていくのです。

アシュラムセンター主幹牧師 榎本 恵


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