2月6日(降誕節第7主日) 説教要約

説教題「神の国を語る」

聖書:マルコによる福音書 第4章10〜12節、21〜34節

私たちは「見えない神」の前に立ち、信仰生活を送っています。聖書は見えない神が人を介し、様々な手段を持って、神の意思を伝えます。その一方、見えない神を探し求め、その神に心の思いをさらけ出し、助けを求めます。

私たちは、見えない神を性格づけます。生きている神、在って在る神、霊なる神と。さらに求め続ける中で「裁きの神」「怒りの神」とその姿を描くのです。聖書は「いまだかって神を見たものはいない」という現実の前に「神を知りたい」と願うのが私たちの本心と言えるのでしょうか。ただ神の前に立ってきた人は、神を探す、神を求める行為・行動の中で、神からの恵みを受ける立ち方、姿勢をも考えました。それが律法でした。パウロは「律法は罪の自覚を深めるが、神による義とはならない」と言います。この罪の自覚を深める中で、「神は怒りの神、裁きの神」の考え方を深くした、それが神の民イスラエルでありました。神の前に生きる人、特に社会的に弱い立場にある人には、その道が閉ざされてるように狭められてしまい、求める場を失い、嘆きとその一方で「救い主の待望」が蔓延していくのであります。

ここにイエスの福音が登場するのであります。ヨハネによる福音書では「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示した」と言います。イエスは自ら福音を通して見えない神の「姿」ではなく「心」を明らかにしたのです。その心は皆さんがよく知るところであります。

パウロは「見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは過ぎ去るが見えないものは永遠に存続する」と言い、私たちの心から消えないと言うのです。

主任担任教師 井上 勇一