1月30日(降誕節第6主日) 説教要約
説教題「みこころならば」
聖書:マルコによる福音書 第1章35〜45節
イエスが福音宣教を開始する。先週の聖書箇所は弟子を集め、宣教をするイエスが描かれ、今日の聖書箇所はガリラヤ中の会堂を巡り福音を説くイエスとハンセン症を患う者が癒される場面です。この聖句を読んで気付かされたこと、それはイエスの福音、その目的であります。それに私たち人が「神の前に生きる」意味であります。
ハンセン症を患う者がイエスに癒される場面ですが、そこには「信頼」という言葉に結ばれた「絆」を見ることができます。ハンセン症を患う者は誰であるか不明ですが、律法を元にしたイスラエル社会にあって差別され、苦難が強いられ、苦しみ続けていました。しかし、この中にあって神の前に敬虔に生きたのです。その言葉がイエスへの信頼として現れる「み心ならば、私を清くする」、神への信頼を失うことなく生きた者と描かれます。そしてイエスは「深く憐れむ、手を差し伸べる、その人に触れる」、そして「よろしい、清くなれ」と言うのです。
パウロは「私たちの身体は神から頂いた聖霊が宿る神殿」と言います。イエスの福音は「人を罪の縄目から引き出し、神の器に変えることを目的とする」と言えます。すると、イエスが福音宣教において「癒す」行為は、人が神の願う姿に変えることではないでしょうか。律法は罪の自覚を深くし、福音は救いの喜びをもたらす行為であったのです。
イエスは、貧しい者の側にあって、人を「神の器」に変えることを福音としました。それは誰もが「自分の身体をもって神の前に立つ」ことを願っての行為であったのです。癒された者は、イエスの指示に反して「解放された喜び」を町中に言い広めてしまいます。イエスが民に願ったのは、「神の前に生きている」との自覚であったのではないでしょうか。
主任担任教師 井上 勇一