1月16日(降誕節第4主日) 説教要約

説教題「時、満ちる」

聖書:マルコによる福音書 第1章12〜15節

ダビデの子コヘレトは「何事にも時がある」として、「生まれる時、死ぬ時」と、天の下の出来事にはすべて定められた時があると言います。コヘレトは「定められた時」をもって、私たちが神の元にあって、その時々に為した思いや行為を過去に追いやられた物であっても「神は尋ね求める」(裁き)と言います。イエスの「時」は「神が尋ね求める」為にあったのであろうか、と考えてしまいます。

このコヘレトの預言のようにして、イエスは「時満ちる」如くに、備えをし、福音宣教を開始します。「道に備える」(荒野での試み)は、イエスが神に仕え「油注がれた者」になる時と言え、この決断をもって「福音を語る時」が備えられます。

そして「福音宣教」を開始する時がきます。イエスは言います「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と。宣教は「人を変える」ということもでもあります。「人の子」を「神の子」へと変える行為がイエスに委ねられます。その為にイエス自身も「油注がれた者」となり、人には悔い改めを求め、新しく生まれ変わることを求めるのであります。

イエスの福音は、一方で「神が尋ね求められる」時に備え、その一方では「神の恵みに与かる」備えとも言える。いわば「人の子である」私がイエスの助けを借りて「神の子」とされるとも言え、イエスは強く悔い改めと新しい命に生きることを求めます。

「神の子となる」とは、「神の前に立たされている」ことを受け入れること、「神の裁きの前に在る」我を知ること、と言え、パウロは「神の義は初めから終わりまで信仰を通して実現される」と言います。

主任担任教師 井上 勇一