2026年5月17日(復活節第7主日) 説教要約
説教題「主よ、時が来た」
聖書:ヨハネによる福音書 第17章第1〜13節
十字架を前にしてイエスは2つの祈りをささげます。一つはヨハネ17章の「執り成しの祈り」であり、もう一つは「ゲッセマニでの祈り」です。前者は「父よ、時が来た」と十字架を前にイエスの決断が示されます。これに対してゲッセマニの祈りは「わが神わが神、何故にわたしを見捨てるのか」と怖への祈りがされます。ただこの十字架を前にした祈りの目的には、「父なる神の栄光」を示すイエスがあるのです。この「祈り」の違いは二つの立場をもつイエスがあります。一つは「神の子」として人の肉の姿を超えたイエスであり、もう一つは「人の子として肉の苦しみを超える決断が描かれていると言えます。
ヨハネは、「十字架の時」を栄光と捉え、共観福音は「十字架を苦難の時と受け止める。ただ、共観福音に描かれる苦難は「喜びへと変えられる」詩編 22編をもって神の栄光が示されます。十字架と復活とがあって「栄光」があると言えますが、「時はきた」と受け止めるイエスがいれば、その一方で「わが神わが神何故に見捨てるのか」と嘆くイエスがあるのか、考えさせられます。今日はヨハネの視点から考えます。
ヨハネの「時」は、イエスが登場以前からあった時と捉え、「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光」と言い、「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった」(ヨハネ1:1)と「栄光の時」は創造のはじめから予定された計画であったこと、しかも「神の子を通して父なる神の意思を具体的な言として明らかにする」と言いいます。この言が十字架の死と復活であったのです。この出来事を通して、キリストの側にある者はキリストの栄光に与かることが赦される。キリストにとって「栄光」は「キリストとわたしたち」と一つとなることで成り立つと言えるのです。
主任担任教師 井上 勇一
