2026年6月28日(聖霊降臨節第6主日) 追悼

「独りの信仰者」

ひとりの兄弟が6月17日朝に神の元へ召された。94年の生進であった。1998年に転入され、2019年に転会されたので洛南教会では22年の仰生活を送った。自宅で葬儀をしたが、母、義母、次男を、そして妻も自宅で葬儀をし、見送っている。そしてそこに集まり見送った者は、教会の有志と息子夫婦であった。簡素で、しめやかで、めされた者の意志を大切にした葬儀であった。

兄弟は、高知県伊野町が故郷である。清流仁淀川が流れ、深い山々に囲まれた山間地と聞くが、少年時代を過ごし、故郷の豊かさに育まれた信仰は、神とわたし、キリストとわたしとの関係に徹した頼の中で養われて行った、そんな仰観ではと察している。飾らず、語らず、愛想もなく、それでいて丁寧に、労し、様々に奉仕し、尽くす様は私たちが望む仰者像である。

昨今、ふと思うのは、人の子イエスはどんな方であったかである。十字架に架かるイエスは、言葉語らず、苦しさをいとわず、黙して、死んでいった。福音を語るイエスは、必要とされる言葉と行動をもって、神の意思を伝えた。弟子たちと生活するイエスは、福音の使者を育てることを目的として語る教師イスの姿勢をみる。イエスは、人と係わることを大切にし、その係わり方を言葉・祈り・行動・奇跡をもって示し、この行為をもって人とのつながりを強くしていった。言葉少ないイエスを視るのではないか。

兄弟は、積極的に「アシュラム運動」に係わり、桃山アシュラムでは事務局として尽力された。アシュラムは不断の祈りを大切にし、他者への祈りをし続けている。兄弟は「祈り」を人とのつながり、神とのつながりを創る手段とし、人と神との信頼関係を築いたのではなかろうか。一人の神に仕えた信仰者をみるのである。

主任担任教師 井上 勇一