2026年3月15日(受難節第4主日) 説教要約
説教題「わたしの愛する子」
聖書:マルコによる福音書 第9章第2〜13節
神は歴史の中で、自らが創造した民に向かって、自身の立場や関係、意志を明らかにします。しかも人が持つ感情のような思いをぶつけるのです。旧約聖書では「共にいる」という神の意志を明らかにし、それが神と民との関係をつくり、信頼関係をつくり、神ご自身が描く世界へと人を導いていくのであります。
この「共に常にいる」、その具体的に存在するものとして、イエスがこの世に起こし、更に神は自らの意志を明らかにします。そしてこの世に起こしたイエスを神は「わたしの愛する子」とし、その関係の「濃さ」を明らかにするのです。父なる神は「これは私の愛する子」と、イエスが「受洗を受ける時」、そして「変貌の時」に明らかにします。
この「愛する子」という宣言はいわば二つの世界で示されます。一つは受洗という「人の子として生きる決断の時」、もう一つは変貌した世界で、天に上げられたモーセやエリヤと交わる「神の子として生きる時」であります。
福音書には「わたしの愛する子」という神の宜言が他の場面で隠されているように読むことができます。それは、ゲッセマネで祈るイエスと十字架上で叫ぶイエスとです。イエスが「この杯を取り除けてほしい」と言えば、それに応える神、「これはわたしの愛する子」と宣言し、「わが神わが神何故にわたしを見捨てるのか」と叫びに、「これは私の愛する子」と応じる神であるのです。
神が「これはわたしの愛する子」という愛は、父と子とが一体となった関係、その神の愛を子がこの世に具体的に明らかにした「愛」であったと言えるのです。
神はわが子を犠牲のしるしと捧げ、そのわが子の死をもって、私たちに救いの道を開いた。それが子の愛であったのです。(1ヨハネの手紙 4:10)
主任担当教師 井上 勇一
