8月21日(聖霊降臨節第12主日) 説教要約
説教題「叱る私、褒めるキリスト」
聖書:マルコによる福音書 第10章13〜16節
今日の聖書箇所では、イエスに祝福を願う親がイエスの周りに幼子を連れて来ます。話をしていた弟子たちは、幼子がまとわりつくことを怒り、イエスは「幼子を来るままにさせなさい」と言い、抱き上げて「神の国はこのような人のためにある」と祝福をします。
子どもの無邪気な幼さ、純真さ、何でも疑うことなく受け入れる子どもたち、この純粋な子の無罪性を祝福の対象とされるのではと理解しますが、そうではなく、幼子の弱さ、軽んじられ、助けを必要としている状況に対して、神の国に入ることの約束をするイエスがあると言います。すると、幼子を通して大人に向かって神の救いを説くイエスが描かれるのであります。
マタイによる福音書5章3節に「こころの貧しい人々は幸いである。神の国はその人たちのものである」とありますが、この「こころの貧しい人々」がちょうど「幼子」の考え方に当てはまります。イエスの出来事に5000人の食事、4000人の食事物語がありますが、ヨハネによる福音書6章3節に「イエスは山に登り、弟子たちと座っていた。すると大勢の群衆が自分の方に来るのをみた」とあり、このイエスを求める群衆、それが神の恵みを求める「こころ貧しい人々」と言えます。
イエスは「神の国は、こころの貧しい人のものである」と言いますが、では神の国にあずかるための「貧しさ」とは何でしょうか。それが今日の説教題である「叱る私、褒めるキリスト」であります。保育の世界で「褒める保育」がよいと言われ、保育者に勧められています。しかし、ついつい「叱る」ことでクラスをまとめようとしてしまうのですが、この「叱る」ことで自らの都合に併させようとする、そんな自分がいることに気がつきます。「こころの貧しさ」は、この自分に気が付くこと、そのことをイエスは「幸い」と言うのでありましょう。
主任担当教師 井上 勇一