3月6日(受難節第1主日) 説教要約

説教題「神を語るために」

聖書:マルコによる福音書 第1章12〜15節

イエスが福音を明らかにし、教会が生まれ、その教会は延々と歴史を貫くように歩み続けてきました。日本に伝わったのはカトリック教会が500年余り前、プロテスタント教会は150年前です。この教会が今は存亡の危機の中にあります。どの教会も高齢者を中心にし、若者は教会に関心がありません。このままだと教会という形は残っても中身がなくなる、そんな遺物となる可能性があります。

京都の北部にある夜久野教会、今日、この教会をどうするか、地区の総会で議論されます。会員はゼロ、会堂はあり、宗教法人格をもちます。1946年創立でありますから洛南教会と同じであります。信仰者の残した見えない遺産があります。それをどうにかできないものかと思案しています。10年前近江野田教会がありました。この教会は存亡の危機にあった時、決断したのは教会合併でありました。八日市教会と合同し、その建物が生かされ、今も礼拝を捧げ、活動が継続しています。

「教会は、牧師が中心になって動かしている。」そんな錯覚を教会員は持ちます。この錯覚は教会を牧師の私物化させ、教会の衰退をもたらすのです。パウロはいつも教会の外から指導し、会員を養いました。そして教会は会員が育て、管理し、礼拝をし、教会そのものが育ちました。教会は一人一人の会員が主であり、教師はいわば「根なし草」のような存在であります。

ある教会が「廃止」されました。最後残った牧師は、残った財産を町に寄付し、キレイに清算しました。1931年創立され2019年廃止されました。「信仰という遺産」跡かたなく消えてしまいました。「これでいいのかなぁ」と部外者ながら思うのです。ヨエルは「老人は夢を見、若者は幻をみる」というが、教会に幻が無いのでしょうか。

主任担任教師 井上 勇一